2025/07/28 (Mon)
「憂鬱な生き者共よ」ライターノーツ公開
エルザ
本作を最も色濃く体現することとなった、2025年5月に先行配信された一曲。タケトのエネルギッシュな歌声とひりつくブリッジミュートで幕を上げる構成、血の滲むような暮らしの中で手を取り合えること自体が幸福なのだと叫ぶ主題は、「優しさを失くした」ともオーバーラップする。
一方、奥行きを増したバッキングギターとベース、シンプルながら突き抜けるサビの推進力を生み出すドラムなど、何倍にもたくましくなったサウンドスケープには、自身初のワンマンライブをはじめとする夜の足跡が滲む。
「懸命に生きている我々に対して、物なんて言葉を使わないでくれ」とタケトがコメントしていた通り、〈虚勢を保護色として生き抜く 不思議な生き者 儚き生き者〉という歌詞には、ボロボロでも強がりながら、希望と言うには大袈裟な輝きへ手を伸ばす人々の生き様が投影されている。そんなミュージックを奏でているゆえに、Cloudyというバンドには血が通っているのだと改めて思い知らせる作品。
曇り空の下より
4月のワンマンライブにて「これまで誰かに向けて曲を書いたことはなかった。この曲は初めて誰かに向けて作った曲であり、その誰かとはあなたのことです」とプレイしたナンバー。渡り鳥や曇り空など過去のディスコグラフィーとも通底する言葉を配しつつ、分厚い雲を突き破らんと跳躍するタケトのボーカリゼーションに乗って、オーディエンスへ向けた無濾過の愛や情がビシバシと身体を打つ。〈中1の夏にブルーハーツを聴いたあの日から 今もまだ いつまでもさめない夢の中だ〉(「さめない夢」)と歌っていた青年が、〈まだ叶わぬ夢の途中 君に会えた〉と出会いの喜びを天へとぶつけた末に到達した〈どうせ叶う夢の途中 君に会えた〉の一節。その美しさたるや。
内省から外向への変化は、バンドの進化にも直結しているはず。ぼやけた日々にビビットな晴れ間を連れてくる雄大なCloudyの次なる一手だ。
生きてる限り
Cloudy史上最も開けた歌に連なるのは、バンドという夢を追う営みにおける葛藤と焦燥をしたためた一曲。元来Cloudyの音楽は理想を追求することの喜びと自らへの叱咤激励を含有しているわけだが、その背後に数え切れない屍が積み重なっている事実は言うまでもない。就職した友達と主人公の会話を通じ、かたやリアルを、かたや理想を選んだ2つの人生が対比的に描かれていく。決してどちらかを称揚するのではなく、〈多分僕ら生きてる限り 悩み続けてくんだろう〉〈そもそも人生に正解なんてもんが あってたまるかよ〉とあくまでも生き者たち全てを抱きしめる、そんな懐の広い大曲。
少年の疑念
Cloudyの顔として機能しているタケトの叫びを孕んだ歌声は鳴りを潜め、憂いを帯びたローな歌唱が小説的なリリックを紡いでいくミドルチューン。冷たい手触りのアルペジオやトボトボと道を往くように四分で刻まれるベース、ボトムアップの役割を遂行するドラムなど、削ぎ落とされた演奏が展開されていくからこそ、慟哭するギターが切なく耳を貫く。
〈白紙とペンと長考で打開を試みるが 白紙は姿そのままで今日も出番を終える〉と第三者の視点から少年時代を描きつつ、〈大人になって分かるのかな〉〈大人になんて分かるものか〉と膝を抱えた少年の漠然とした不安が立ち現れる。決してその悩みが消え去るわけではなく、いつまでも胸を覆い続けるかもしれないリアルを見据えているゆえに、リフレインされる〈泣いた 鳴いた〉の一行がどうしようもない哀愁を蓄えて、胸を掻きむしっていく。
寝ぼけたままで
守屋が作曲を担当した一曲は、ブレイクが多数織り込まれるリズムパターン然り、テンポダウンを挟み込み、ツービートへ展開していくクライマックス然り、ここまで形成してきた Cloudyらしさを打ち壊す新基軸と言えよう。
新たな手法を取り入れる決断をこのタイミングで下したことは、バンドにとって非常に健全で然るべき進化であるが、その背景に悩みがなかったと言えば嘘になるのではないだろうか。
唸って、未来の地図を試行錯誤して書き始めたからこそ、起伏なく回転していく日々を嘆いたのちに放たれる〈家を出よう まだ 寝ぼけたままで〉のリリックは、ほんの少しだけ変わるかもしれない今日をスタートするための号砲にも聴こえてくる。後世から彼らの楽曲を振り返った時、ひとつの転換点となりそうな、期待に満ちた楽曲。
安い映画
1stフルアルバム『情熱があるならば』後、初のシングルとして2025年2月にドロップされた楽曲。卑近で陳腐な営為の中、夢という不確かなものを掴まんとすることの功罪を刻んできたのがCloudyだが、この曲ではそのリアリズムが恋愛という蓑を借りて遺憾無く発揮されている。
〈あなたがいたら生きてゆけるなんて 笑える程に安い映画だ〉と2人の恋路がありふれたものだと承知しながらも、ただ「笑っていてほしい」と願う切実さ。「安いなんて言い切れてしまうほどの暮らしが何よりも素晴らしいのだ」と知っている彼らが鳴らすからこそ、意義深いラブソングである。
絶望通り
裏打ちのリズムが特徴な、異彩を放つラストナンバー。祭囃子を喚起するメラメラたぎるリフや動き回るベースラインからは、バンドの音楽的なビルドアップが伺える。さらに、そうしたネクストステージ感の強い楽曲をラストに据える采配は、エイトビートのド直球だけではない音楽を鳴らし、更に多くの観客へとアプローチをかけていこうとするCloudyの姿勢の表象だろう。
「絶望通り」というタイトルは、タケトが感情の名を冠した「〇〇通り」という言葉を探し求める中、自らが歩いていた誰もいない通りに名付けた名称に由来するそう。本EPに終止符を打つ〈僕はここだ ここなんだよ〉の一節は、前作の最終曲「青年は今日も音を鳴らしている」とも共振。改めて、力強く自己存在を打ち立てている。
文:横堀つばさ
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